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リー・ミラクル著「I AM WOMAN」カナダの先住民族女性が見たフェミニズム

更新日:2022年8月2日

 先住民族として「盗まれたふるさと」である北アメリカに存在する苦悩、怒りを表明した作品。エッセイや詩など。白人女性や移民女性を中心に考えるフェミニズムやアカデミアへの批判を交え、先住民族の女性たちの現状、将来への展望を論じる。


 本書の著者リー・ミラクルはカナダでは著名なストーローネーションの学者、活動家、ライターだ。本書は1988年に刊行され、今も先住民の人たち、移民の間で読み継がれている。(プレス・ギャング・パブリケーション)


以下は、2018年に私が本書をさいしょに読んだときに書いたメモだ(文が変なところもあるけれどそのまま掲載する)。


「この本を読んだのは、「フェミニズム」には白人女性のプリビレッジが色濃く反映される場合があるという批判をよく読むから。「女性である」というだけでその経験がユニバーサルではない。そして、私自身、ファーストネーションズの本を多く読んできているので、フェミニズムに対し、どのような考えで接しているのだろうと興味が湧き、読んだ。


率直な感想として、読むのがとても辛かった。言葉自体はとてもリズミカルで、本を読んでいるというよりも、筆者の演説を聞いているような、劇を見ているような、そんな気持ちになるくらい自然に入ってくる。だけど、内容があまりにも暗い。怒りのレベルとみち溢れ方が半端なく高い。それだけファーストネーションズの人たちが北アメリカで置かれる状況は辛く、解決しようにも、建国の歴史、現在のシステム全てがコロニアリズムに根ざしているこの国では、その根本的な解決を図ることは国の根幹を変えることになるので、その見通しは果てしなく悪い。


大学院で勉強したので、知識として新しいことはそこまでなかったけど、フェミニズムに対する彼女のスタンスは辛いものがあった。それは、ネイティブの人たちはまず「人間として」みられていないから、女性としてどう、という話の前に、白人が自分たちのことを「正当な人」としてみなすことを求める運動から入らないといけない。白人女性が声高に国外の有色人種の女性の解放をうたっているが、国内の先住民をどうしてみないのか。自分たちの犯している罪には目をつぶるのか。


読者の居心地が悪くなるくらいの強い白人への批判、男性への批判、それを読み進めていくと胸の動悸が速まるようだった。「あとがき」に、「最後まで読めた人は少ないでしょう。でも、読んだ人には、私たちの闇が見えたはず。読む前よりもっと落ち込ませてしまったらごめんなさい」という文言が書いてあり、これくらい強く訴えなければ伝わらないもの、ここまでしなければ外に出きれないもの、ファーストネーションズの現実を顧みれば、訴えとしてきっと、これでもまだ弱いんだろう。


それくらいの苦しみ、ジレンマ、怒り、涙がうかびあがるテキスト。

セトラーは読むべき。耳が痛くても、読むべき。

心をオープンにして、読むべき本。

マイケルにこの話をしたら、この本のタイトルは、ヘレン・レディの歌からとってるのかなあ?と言っていた。"I am woman. Hear me roar."という歌詞で始まる曲。」


 ミラクルの問題提起は、石原真衣さんが「現代思想2022年5月号特集=インターセクショナリティ」収録の対談で述べていたことに共通点があると思う。彼女は、ベル・フックスを読む日本のフェミニストは、一体どこに自分を位置づけているのか疑問に思う、と述べた。


 わたしは大学院に入った2013年、ボニー・バーストー教授からフェミニズムの存在を教えてもらい、そこから学び続けている。当時、わたしの指導教官はアニシナベ・ネーションのジョン・ポール・レストール教授で、大学院の授業やゼミもほとんど彼のネーションの伝統に基づいたやり方で行われた。義母の住むノバスコシア州では、ミクマクネーションの言葉を学んだ。私の場合、女性でセトラーという立場でカナダにいたけれど、日本に急に帰国、生活することになり、立ち位置のレイヤーがまた増えたと感じ戸惑う。カナダと違ってそういうことを話せる人があまりいない。


 ジェンダーに基づく差別や構造的搾取との戦いの中でも、自分の立ち位置を常に批判的に見続けることの重要性と難しさをわたしはミラクルの本書から学ぶわけだが、ミラクルが語り掛けている、いっしょに叫ぼうとする存在はわたしではない(かもしれない)ことも覚えておきたい。


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